備忘録

twitterでは収まらないこと恥ずかしいこと

なんのために生きているのかとか、自分が何かのためになっているのかとか、そりゃ考えちゃうけど。

でもなんのためになんて永遠に明確な100%の答えなんてでなくない?

子供がいたらまた違うのだろうけど、誰かを扶養している環境でも無し。

まあざっくりと自分のために生きているのだとは思うのだけど、自分のために生きるって言い切れるの、相当自分を信用していないとなかなか厳しい。

自分の汚いところ狡いとこと誤魔化しているところぜーんぶ自分が一番知っているから。こんなクソみたいな人のために生きるのかなんて思ったりもする。それを突き詰めるとこんなにクソなら死んでもいいのではなんて考えちゃったりするけども。でもまあやっぱり私はそれはだめだなあと思う。

クソみたいな自分でも仲良くしてくれる人は私にはいるから。その人たちにもまあわたしのクソな部分は垣間見えてる垣間どころかモロ見えてたりもするだろうけど、こいつのこういうとこいけ好かないな嫌だなって思われる時もあるだろうけど。でもトータルで見て、嫌いの比重がまだ好きより重くなってないから付き合ってくれている。とても迷惑かけてると思うし悲しい思いも苛立ちもさせたりしてるだろうのに。

そういう人たちを自分の死のせいで悲しませたくない。生きてる間も迷惑かけてるのに、さらに死んで心労かけるのは申し訳なさ過ぎる。というか、そこまで勝手しちゃいかんわ、と私は思う。

だから自分のために生きる、というより、自分と自分の大事な人のために生きるということか。

 

どうしたってマイナスの部分とプラスの部分がぴったり同じ量あってもマイナスのほうに気をとられる。良いことが10個あったあとに嫌なことが1個あっただけでマイナスのほうに引っ張られる。

だから自分の良いところなんて嫌な部分に気をとられて霞んで見えなくてうまく自覚できないんだけど、自分のまわりにいる人たちは自分の良いところを見つけてくれて付き合ってくれているってことでしょ?嫌な部分が多い人とは付き合いたくないもんね。

だから自分の大事な人が自分の近くにいるってことを、少なくとも自信というか自己肯定というか安心感につなげていいのかもなと思う。

そんでそういう人たちをがっかりさせないように自分の嫌なところを減らしていきたい。

 

こう思えるのも、片想いではなくてほぼほぼ両想いだろうと思える友達がいるからなんだろうなあと。24歳にしてそういう人たちに出会えたってのはとても嬉しいしありがたいし貴重だと思う。